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原義から見る宗教と催眠。

TAKKです。
あけましておめでとうございます。
新年の挨拶の代わりというわけでもありませんが、久しぶりの雑記でございます。

まずはじめに、最新作『Hypnotic Orient(以下、HO)』の販売本数が合計750本を達成いたしましたことをご報告させて頂きたいと思います。幾度の延期を経ての発売となりました本作ですが、変わらずのお引き立てとご声援を頂きまして、誠にありがとうございます。ご購入いただいた皆様、ならびに製作にご協力くださいました方々に、サークルを代表して厚く御礼申し上げます。


さて、今回の雑記の内容でございますが、HOに関係したものということで『神話・宗教と催眠』というテーマを掲げて進めてみようと考えております。過去の例に漏れず、途中から違った内容になるやも知れませんが、その場合は何卒ご容赦くださいませ。また、『神話』にせよ『宗教』にせよ、一口にそう申しましても古今東西、多種多様でございましょうから、ひとまず今回のところは『西洋の神話・宗教と催眠』という主旨にて進めて参りたいと思います。

さてさて、催眠とは何か……という考察は、すでに過去の雑記にて何度か行っておりますので、今回は『宗教とは何か』という視点から入っていくことにいたしましょう。以前に書いた『古い書籍から見る催眠』という雑記内で、『催眠における“暗示”とは、示すことではなく導くことであるから、本当なら“暗導”というべきだ』というような本の内容を引用したと記憶しているのですが、皆さんは“宗教”という言葉の原義はご存知でしょうか?
ひょっとすると有名な話なのかも知れませんが、“宗教”という言葉は(“暗示”という言葉やそれ以外の多くの用語と同様)外国語の“Religion”の訳語として作られたものなのだそうで、(私にとっては)意外にも、この言葉が今日のような意味合いで使われはじめたのは、明治初期からのことなのだそうです。ただし、“宗”と“教”という各々の言葉自体は、それ以前にも中国仏教の五重玄義(大事な教え、モットー)であるところの『名、体、宗、用、教』などにおいて用いられていたものなのだそうで、それらを合わせて“宗教”という熟語を作ったのではないかと考えられているとのこと。ですので、“宗教”という“日本語の原義”は、仏教用語における“宗(教えの真髄、性質)”という言葉と“教(文字通り、教え伝えること。伝導すること)”という言葉であり、即ち、“宗教”とは『様々なものの基礎を教え伝えるもの』というような意味の言葉であると言えるのでしょう。
はい……何とも意外性のない結果でございますね。しかし、せっかくですので、もう少しだけこの方面から考えを進めてみることにいたしましょう。そもそもの話、“宗”でも“教”でもなく“宗教”という新しい言葉をわざわざ作ったということは、それまでにあった言葉では“Religion”の意味として適当ではないと考えたからである……という方向性で類推することにして、今度は外国語の“Religion”の原義を探ってみたいと思います。

さて、“Religion”の原義は何かですが、どうやらこれにもいくつかの説があるようです。大よそのところ有力なのは、ラテン語の『再び繋げる(re+ligare)』という言葉からの派生であるという説と、『再び見る、反復する(re+legere)』という言葉からの派生であるという説とのこと。ここで言うところの『繋ぐ』や『観察する』の目的語は何かと言えば、これは言うまでもなく『神様やそれに類する存在を』ということなのでしょう。とすると、“Religion”と、その訳語である“宗教”という言葉の意味は、『神と人とを繋げるもの』であると言えます。一見するとこちらも意外性のある答えではないように思われますが……しかし、ここで着目すべきなのは、それが『繋げる』ではなく『繋ぎ直す』であり、『見る』ではなく『再び見る』であり、『読む』や『行う』ではなく『反復する』であるという点である……と、そんな風に考えを進めてみることにいたしましょう。
さてさて……では、どうして『再び』なのでしょうか。当たり前の話ですが、『再び』という言い方をするのは、『新しくそうなる』というよりも、『以前にそうだった物を元に戻す』という意味を言外に多く含んでいると言えます。そうした観点から言葉の意味をそのまま解釈すると、『“宗教(Religion)”とは、神の再発見である』と、言えるのでしょう。……これは、西洋諸国における自然科学や芸術文芸のあり方を見れば、何となく理解できるもののように思われます。
では、『“宗教”とは“神の再発見”である』とすると……次に湧き上がるのは『“神”って何のこと?』という疑問ではないでしょうか。“神”とは何か……ええ、そうですね……自分で書いていても「お前、なに言ってんの」と戸惑うほどに大仰な話になって参りましたが……ともかく、この方向性でもう少しだけ進めて参りましょう。

神とは何か――ご存知の通り、宗教というものが創始されて以来、この壮大な疑問に対する答えは無数に生み出されて参りましたが、今だかつて、人々のあいだでその見解の統一が行われたことはないように見受けられます。しかし、それら無数の見解の中には共通点がひとつも見受けられないというわけではないようです。例えば、古今東西、どの宗派であれ、もしくは宗教とは関係のない場面で用いられる用語としてであれ、“神”や、それに類する言葉が示すモノ(あるいは現象や存在など)は、必ず“情動的”であり“感動的”であるという点です。
また、付け加えて言うなら、神話や経典などの中で描かれている“神”という存在の多くは、実に感情的かつ非論理的な振るまいをするものですし、情緒不安定と言ってもいいほどに、一般的な人間の感覚からは大きく外れた感情的な側面をも垣間見せています。これはギリシャ神話などの多神教的な観点だけでなく、完全無欠であるはずの一神教の神ですらも、ともすると幼稚な存在であるかのように描かれます。これには恐らく何らかの理由があるに違いありません。でなければ理屈に合いませんし、実際、そうした“神”の振る舞いを聞き知った者(無神論者というほどではなくとも、それほど宗教というものに興味の無い者)の中には、少なからず「こんな存在を崇めるなんておかしいんじゃねーの」と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。……まったくもって、もっともな話です。これは私もその部類の者だからなのかもしれませんが、しかし、信仰心を確かめるというためだけに財産を奪って家族を皆殺しにしたり、「レイプされて処女じゃなくなったとか不敬すぎ」と言い放って信者を呪いで化け物に変えたりするような者を高尚な存在として崇めるなどとは、時代背景を考慮しても、おかしなお話であるに違いありません。それでは、なぜそんなものを信仰する人々が、いつの時代にも一定数いるのでしょうか。

何故そんなものを好むのか――この疑問への答えは、大きく分けると次の2種類に分けることができるのではないかと思います。1つ目は、「何故ならそれは、宗教とは弱者のためのものであるからだ」という考え方です。これは「ゆえに、弱者でない私には理解できないのが当たり前」という結論とセットになっています。ニーチェの言う『ルサンチマン』だとか、仏教の故事にある『長者の万灯より貧者の一灯』という言葉にも見られるように、宗教というものが弱者のための救済という一面を持っているのは事実なのでしょう。この答案のボトルネックは、弱者と愚者と貧者は必ずしもイコールになるものではないという駁論にどう弁駁していくかという点でしょうか。著名な賢人の言葉を引用するなどして理論武装し易いところも魅力的ですが、堅実であり理論的であるがゆえに、主張としての面白みや意外性には欠けるのかもしれません。
さて、「自分は弱者ではなく、判断能力に長けているから騙されないのだ」……幸か不幸か、我々の日々の生活において、こうしたシンプルなモノの見方が正しいことを裏付けるような場面に遭遇するのは、意外なほど容易いものです。しかし同時に、我々は、過去の自分の愚かしさ(自分が愚かしいことを知らぬほどの愚かしさ)を悔やんだりもします。つまり、こうしたシンプルな考え方では捉えきれない場面も少なからず存在するのだということも、経験則として知っているのです。
この経験則を是としたもの、それが2つ目の答え……即ち、「何故ならそれは、自分とは違う見方をしているからだ」という答案です。これは一見すると、価値観の違いを認め合うという大雑把で没個性的で刺激の薄い答案に映るかもしれませんが、しかして荘子いわく、「魚は水の中にいるのが楽しいと魚じゃないオレに分かるとする根拠は、オレではないキミが魚は水のなかにいるのが楽しいと魚じゃないオレに分かるわけがないって分かっていたのと同じ理由さ」とのこと。正しいかどうかはともかく、こちらの方が突き詰めれば何かが開けそうな考え方に思えますし、今回は久しぶりの雑記ということですので、より発展性があるように思えるこちらの答案が正解だったとしたらという仮定で考えを進めることにしてみたいと思います。
さてさて――「何故、尊敬に値するとは思えない“神”を崇める者がいるのか」という問いへの答えが、「それは、自分とは違う見方をしているからだ」とすると、それでは、いったいどういう風に捉えていると考えるのが適当なのでしょうか。
「違う見方とは、どんな見方?」――これを考えるにあたっては、2つほど前提が必要になるでしょう。即ち、『自分の判断能力は一般的なレベルである』ということと、『自分の嗜好は一般的である』という2つの前提です。この2つの前提さえあれば、自分の感覚だけでもってして、『違う見方』の形をあれこれと類推してみることができるようになります。言い方を変えれば、『仮にこういう見方をしているのであれば、神や宗教を信仰する気持ちも理解できる』ということですね。……認知的共感から情動的共感への変換と言ってもよいでしょう。
さあ、それではこのあたりで、そろそろ結論に向かって舵をきることにいたしましょう。これまでの走り書きの内容をまとめると次のようになります。

1、“宗教(Religion)”とは“神の再発見”である。
2、“神”と称される存在や事象は、例外なく情動的なものである。
3、それらは見方を変えさえすれば、万人が好むことのできるモノである。

以上の3点から類推した結果、どのような仮説が成り立つのか……その思考の経緯の前に、結論から書き記すことに致しましょう。それは『西洋における神とはエクスタシーの擬人化である』という答えです。……自分で言っておいて何ですが、なんとも不敬な字面でございます。しかし、ここで言う“エクスタシー”とは、プロティノスなどが用いたギリシャ語の言葉“エクスタシス(忘我の状態、魂が肉体を脱すること)”の意味としてのものであり、何も洋物ポルノの女優が「Oh Yes! Oh My GOD!」と喘いでいるからと主張するわけではありませんので、ご安心ください。
さて、件のエクスタシーの原義にしてもそうなのですが、西洋東洋を問わず、忘我状態……または変性意識状態、あるいはトランス状態での経験や、そうした状態へと身を置く行為を特別視するのは、それほど突拍子もないことではないようです。一番身近なものとしては、仏教などで行われている瞑想行為がそうでしょう。達磨大師の逸話や即身仏などが、一種のトランス状態にあったがゆえのことであるとする話は、皆さんもどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか?
はい、勘の良い方はもうお気づきかもしれませんが、ここでようやく今回のテーマ『宗教と催眠』にたどり着くことができました。神の再発見への導きとは、即ち、トランスへの導きである……という答えです。誤解を避けるために付け加えるなら、実際のところそうした解釈が正解かどうかは定かではありませんし、何れにせよ、それは大した問題ではないのです。これは、言い方を変えるなら、『もしも宗教がトランスへの誘導を主とするものだったとするなら、信じてみても良いと思えるかどうか』ということであり、『もしも宗教がトランスへの誘導であるなら、信仰者がいるのも頷けるか否か』ということなのです。
さて……長々と書き記して参りましたが、最新作『Hypnotic Orient』は、こうした発想を元に制作された一作になっております。宗教とトランス、そして催眠暗示との親和性……あなたは、どう思われましたでしょうか。今回は省略することに致しましたが、ギリシャ神話のクロノスとカイロスの違いなども、神話や宗教がトランスと関係のあるものと仮定して考えてみると面白いものです。トランスやオーガズムの原義なども合わせて、興味のある方は一度お調べになってみてはいかがでしょうか。ひょっとすると、そうした着眼点を持って身近なものとして捉えることが、より深く催眠世界を楽しむための切欠になるかもしれませんよ? ……といったところで、今回の雑記を終えたいと思います。

最後までお読み下さいまして、誠にありがとうございました。
近々、次回作の詳細をお知らせするかもしれません。そちらにも、ご期待いただければ幸いでございます。
本年もサークルTAKKを、何卒よろしくお願い申しあげます。

以上、TAKKの雑記でございました。
それでは、また次回!


TAKK
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