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原義から見る宗教と催眠。

TAKKです。
あけましておめでとうございます。
新年の挨拶の代わりというわけでもありませんが、久しぶりの雑記でございます。

まずはじめに、最新作『Hypnotic Orient(以下、HO)』の販売本数が合計750本を達成いたしましたことをご報告させて頂きたいと思います。幾度の延期を経ての発売となりました本作ですが、変わらずのお引き立てとご声援を頂きまして、誠にありがとうございます。ご購入いただいた皆様、ならびに製作にご協力くださいました方々に、サークルを代表して厚く御礼申し上げます。


さて、今回の雑記の内容でございますが、HOに関係したものということで『神話・宗教と催眠』というテーマを掲げて進めてみようと考えております。過去の例に漏れず、途中から違った内容になるやも知れませんが、その場合は何卒ご容赦くださいませ。また、『神話』にせよ『宗教』にせよ、一口にそう申しましても古今東西、多種多様でございましょうから、ひとまず今回のところは『西洋の神話・宗教と催眠』という主旨にて進めて参りたいと思います。

さてさて、催眠とは何か……という考察は、すでに過去の雑記にて何度か行っておりますので、今回は『宗教とは何か』という視点から入っていくことにいたしましょう。以前に書いた『古い書籍から見る催眠』という雑記内で、『催眠における“暗示”とは、示すことではなく導くことであるから、本当なら“暗導”というべきだ』というような本の内容を引用したと記憶しているのですが、皆さんは“宗教”という言葉の原義はご存知でしょうか?
ひょっとすると有名な話なのかも知れませんが、“宗教”という言葉は(“暗示”という言葉やそれ以外の多くの用語と同様)外国語の“Religion”の訳語として作られたものなのだそうで、(私にとっては)意外にも、この言葉が今日のような意味合いで使われはじめたのは、明治初期からのことなのだそうです。ただし、“宗”と“教”という各々の言葉自体は、それ以前にも中国仏教の五重玄義(大事な教え、モットー)であるところの『名、体、宗、用、教』などにおいて用いられていたものなのだそうで、それらを合わせて“宗教”という熟語を作ったのではないかと考えられているとのこと。ですので、“宗教”という“日本語の原義”は、仏教用語における“宗(教えの真髄、性質)”という言葉と“教(文字通り、教え伝えること。伝導すること)”という言葉であり、即ち、“宗教”とは『様々なものの基礎を教え伝えるもの』というような意味の言葉であると言えるのでしょう。
はい……何とも意外性のない結果でございますね。しかし、せっかくですので、もう少しだけこの方面から考えを進めてみることにいたしましょう。そもそもの話、“宗”でも“教”でもなく“宗教”という新しい言葉をわざわざ作ったということは、それまでにあった言葉では“Religion”の意味として適当ではないと考えたからである……という方向性で類推することにして、今度は外国語の“Religion”の原義を探ってみたいと思います。

さて、“Religion”の原義は何かですが、どうやらこれにもいくつかの説があるようです。大よそのところ有力なのは、ラテン語の『再び繋げる(re+ligare)』という言葉からの派生であるという説と、『再び見る、反復する(re+legere)』という言葉からの派生であるという説とのこと。ここで言うところの『繋ぐ』や『観察する』の目的語は何かと言えば、これは言うまでもなく『神様やそれに類する存在を』ということなのでしょう。とすると、“Religion”と、その訳語である“宗教”という言葉の意味は、『神と人とを繋げるもの』であると言えます。一見するとこちらも意外性のある答えではないように思われますが……しかし、ここで着目すべきなのは、それが『繋げる』ではなく『繋ぎ直す』であり、『見る』ではなく『再び見る』であり、『読む』や『行う』ではなく『反復する』であるという点である……と、そんな風に考えを進めてみることにいたしましょう。
さてさて……では、どうして『再び』なのでしょうか。当たり前の話ですが、『再び』という言い方をするのは、『新しくそうなる』というよりも、『以前にそうだった物を元に戻す』という意味を言外に多く含んでいると言えます。そうした観点から言葉の意味をそのまま解釈すると、『“宗教(Religion)”とは、神の再発見である』と、言えるのでしょう。……これは、西洋諸国における自然科学や芸術文芸のあり方を見れば、何となく理解できるもののように思われます。
では、『“宗教”とは“神の再発見”である』とすると……次に湧き上がるのは『“神”って何のこと?』という疑問ではないでしょうか。“神”とは何か……ええ、そうですね……自分で書いていても「お前、なに言ってんの」と戸惑うほどに大仰な話になって参りましたが……ともかく、この方向性でもう少しだけ進めて参りましょう。

神とは何か――ご存知の通り、宗教というものが創始されて以来、この壮大な疑問に対する答えは無数に生み出されて参りましたが、今だかつて、人々のあいだでその見解の統一が行われたことはないように見受けられます。しかし、それら無数の見解の中には共通点がひとつも見受けられないというわけではないようです。例えば、古今東西、どの宗派であれ、もしくは宗教とは関係のない場面で用いられる用語としてであれ、“神”や、それに類する言葉が示すモノ(あるいは現象や存在など)は、必ず“情動的”であり“感動的”であるという点です。
また、付け加えて言うなら、神話や経典などの中で描かれている“神”という存在の多くは、実に感情的かつ非論理的な振るまいをするものですし、情緒不安定と言ってもいいほどに、一般的な人間の感覚からは大きく外れた感情的な側面をも垣間見せています。これはギリシャ神話などの多神教的な観点だけでなく、完全無欠であるはずの一神教の神ですらも、ともすると幼稚な存在であるかのように描かれます。これには恐らく何らかの理由があるに違いありません。でなければ理屈に合いませんし、実際、そうした“神”の振る舞いを聞き知った者(無神論者というほどではなくとも、それほど宗教というものに興味の無い者)の中には、少なからず「こんな存在を崇めるなんておかしいんじゃねーの」と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。……まったくもって、もっともな話です。これは私もその部類の者だからなのかもしれませんが、しかし、信仰心を確かめるというためだけに財産を奪って家族を皆殺しにしたり、「レイプされて処女じゃなくなったとか不敬すぎ」と言い放って信者を呪いで化け物に変えたりするような者を高尚な存在として崇めるなどとは、時代背景を考慮しても、おかしなお話であるに違いありません。それでは、なぜそんなものを信仰する人々が、いつの時代にも一定数いるのでしょうか。

何故そんなものを好むのか――この疑問への答えは、大きく分けると次の2種類に分けることができるのではないかと思います。1つ目は、「何故ならそれは、宗教とは弱者のためのものであるからだ」という考え方です。これは「ゆえに、弱者でない私には理解できないのが当たり前」という結論とセットになっています。ニーチェの言う『ルサンチマン』だとか、仏教の故事にある『長者の万灯より貧者の一灯』という言葉にも見られるように、宗教というものが弱者のための救済という一面を持っているのは事実なのでしょう。この答案のボトルネックは、弱者と愚者と貧者は必ずしもイコールになるものではないという駁論にどう弁駁していくかという点でしょうか。著名な賢人の言葉を引用するなどして理論武装し易いところも魅力的ですが、堅実であり理論的であるがゆえに、主張としての面白みや意外性には欠けるのかもしれません。
さて、「自分は弱者ではなく、判断能力に長けているから騙されないのだ」……幸か不幸か、我々の日々の生活において、こうしたシンプルなモノの見方が正しいことを裏付けるような場面に遭遇するのは、意外なほど容易いものです。しかし同時に、我々は、過去の自分の愚かしさ(自分が愚かしいことを知らぬほどの愚かしさ)を悔やんだりもします。つまり、こうしたシンプルな考え方では捉えきれない場面も少なからず存在するのだということも、経験則として知っているのです。
この経験則を是としたもの、それが2つ目の答え……即ち、「何故ならそれは、自分とは違う見方をしているからだ」という答案です。これは一見すると、価値観の違いを認め合うという大雑把で没個性的で刺激の薄い答案に映るかもしれませんが、しかして荘子いわく、「魚は水の中にいるのが楽しいと魚じゃないオレに分かるとする根拠は、オレではないキミが魚は水のなかにいるのが楽しいと魚じゃないオレに分かるわけがないって分かっていたのと同じ理由さ」とのこと。正しいかどうかはともかく、こちらの方が突き詰めれば何かが開けそうな考え方に思えますし、今回は久しぶりの雑記ということですので、より発展性があるように思えるこちらの答案が正解だったとしたらという仮定で考えを進めることにしてみたいと思います。
さてさて――「何故、尊敬に値するとは思えない“神”を崇める者がいるのか」という問いへの答えが、「それは、自分とは違う見方をしているからだ」とすると、それでは、いったいどういう風に捉えていると考えるのが適当なのでしょうか。
「違う見方とは、どんな見方?」――これを考えるにあたっては、2つほど前提が必要になるでしょう。即ち、『自分の判断能力は一般的なレベルである』ということと、『自分の嗜好は一般的である』という2つの前提です。この2つの前提さえあれば、自分の感覚だけでもってして、『違う見方』の形をあれこれと類推してみることができるようになります。言い方を変えれば、『仮にこういう見方をしているのであれば、神や宗教を信仰する気持ちも理解できる』ということですね。……認知的共感から情動的共感への変換と言ってもよいでしょう。
さあ、それではこのあたりで、そろそろ結論に向かって舵をきることにいたしましょう。これまでの走り書きの内容をまとめると次のようになります。

1、“宗教(Religion)”とは“神の再発見”である。
2、“神”と称される存在や事象は、例外なく情動的なものである。
3、それらは見方を変えさえすれば、万人が好むことのできるモノである。

以上の3点から類推した結果、どのような仮説が成り立つのか……その思考の経緯の前に、結論から書き記すことに致しましょう。それは『西洋における神とはエクスタシーの擬人化である』という答えです。……自分で言っておいて何ですが、なんとも不敬な字面でございます。しかし、ここで言う“エクスタシー”とは、プロティノスなどが用いたギリシャ語の言葉“エクスタシス(忘我の状態、魂が肉体を脱すること)”の意味としてのものであり、何も洋物ポルノの女優が「Oh Yes! Oh My GOD!」と喘いでいるからと主張するわけではありませんので、ご安心ください。
さて、件のエクスタシーの原義にしてもそうなのですが、西洋東洋を問わず、忘我状態……または変性意識状態、あるいはトランス状態での経験や、そうした状態へと身を置く行為を特別視するのは、それほど突拍子もないことではないようです。一番身近なものとしては、仏教などで行われている瞑想行為がそうでしょう。達磨大師の逸話や即身仏などが、一種のトランス状態にあったがゆえのことであるとする話は、皆さんもどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか?
はい、勘の良い方はもうお気づきかもしれませんが、ここでようやく今回のテーマ『宗教と催眠』にたどり着くことができました。神の再発見への導きとは、即ち、トランスへの導きである……という答えです。誤解を避けるために付け加えるなら、実際のところそうした解釈が正解かどうかは定かではありませんし、何れにせよ、それは大した問題ではないのです。これは、言い方を変えるなら、『もしも宗教がトランスへの誘導を主とするものだったとするなら、信じてみても良いと思えるかどうか』ということであり、『もしも宗教がトランスへの誘導であるなら、信仰者がいるのも頷けるか否か』ということなのです。
さて……長々と書き記して参りましたが、最新作『Hypnotic Orient』は、こうした発想を元に制作された一作になっております。宗教とトランス、そして催眠暗示との親和性……あなたは、どう思われましたでしょうか。今回は省略することに致しましたが、ギリシャ神話のクロノスとカイロスの違いなども、神話や宗教がトランスと関係のあるものと仮定して考えてみると面白いものです。トランスやオーガズムの原義なども合わせて、興味のある方は一度お調べになってみてはいかがでしょうか。ひょっとすると、そうした着眼点を持って身近なものとして捉えることが、より深く催眠世界を楽しむための切欠になるかもしれませんよ? ……といったところで、今回の雑記を終えたいと思います。

最後までお読み下さいまして、誠にありがとうございました。
近々、次回作の詳細をお知らせするかもしれません。そちらにも、ご期待いただければ幸いでございます。
本年もサークルTAKKを、何卒よろしくお願い申しあげます。

以上、TAKKの雑記でございました。
それでは、また次回!


TAKK
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ご無沙汰しております。

ご無沙汰しております、TAKKです。
諸事情により更新が滞っておりました、誠に申し訳ございません。
新作の『Hypnotic Orient』ですが、
時間をたっぷりと頂きまして、完璧な仕上がりであるとの見解にようやく達しましたので、
先ほど販売申請をさせて頂きました。
審査には5日ほどかかる見込みですので、早くても来週あたりの販売開始となる予定です。
また、販売サイト様からお返事が頂けましたら、専用の記事を設けてご報告させて頂きたいと思います。

このたびはユーザーの皆様、ならびに製作にご協力くださいました方々には、
度重なる延期により、大変ご心配をおかけいたしました。重ねてお詫び申し上げます。
今後、ブログの更新頻度も徐々に復帰させていく予定ですので、
これからも、変わらずお引き立てのほど何卒よろしくお願いいたします。


それでは、また次回。


TAKK

新作の製作状況とロードマップ。

TAKKです。
しばらく更新が滞っておりましたが、作品の製作が一区切りつきましたので、以前と同程度の更新ペースに戻していきたいと思います。
今回は、現在製作中のその二点の作品のロードマップを記させて頂きます。
と言っても、リリースロードマップとして製作したものではなく、サークル内で指標として使っているスケジュール表をそのまま引用しただけのものですので、遅れたり、早まったり、プラマイゼロで予定通りになったりするかも知れません。そのため、カテゴリは“宣伝”ではなく“雑記”とさせて頂きます。
なお、下記のロードマップ内では略称表記などもそのまま記載しております。“HTSF”はTSシリーズの第一弾『Hypnotic TSF』のことを指し、“HO”はオリエンタルシリーズの第一弾『Hypnotic Orient』のことを指します。“rgb”はred、green、blueの略であり、台本上の大別を表します。(ディストピアシリーズをダウンロードして下さった方はひょっとするとご存知かも知れませんが)TAKKでは台本上の文章の種別やキャラ別に文字色を塗り分けており、声優の皆様に依頼する際も、『この文字色のセリフをお願いします』という形で発注させて頂いております。そのため、どの部分があがってくるのかを示すのに色名を用いているという次第でございます。
以下、新作二点に関わるこれまでと今後のスケジュールです。


3月1日 HOボイスrgb発注完了
3月10日 HTSFボイスrgb発注完了
3月25日 HOボイスrを受領 
3月31日 HOボイスgbを受領、仮締め切り、HO編集開始
4月5日 HOアルファ版アップ、HOボイス本締め切り予定
4月8日 HOベータ版アップ
4月上旬 HOマスターアップ、HTSFボイスrgb締め切り予定、編集開始
4月上旬~中旬 HO販売開始 HTSFアルファ版アップ
4月下旬 HTSFベータ版および、マスターアップ
5月上旬~中旬 HTSF販売開始


以上です。
『Hypnotic Orient』に関してはキャスティングと依頼を完了し、『Hypnotic TSF』も概ねのところ順調というわけで、現時点では予定通りに進行しております。しかし……このまま上手く事が運べばと思う一方で、スケジュールが順調だと何だか味気なく感じてしまうこの奇妙な心情はいったい何なのでしょう。「人が私に同意するときはいつでも、自分が間違ってるような気がしてならない」とは、オスカー・ワイルドの言葉なのだそうです。なるほど、それと似た心境なのかも知れませんね。100年以上前の作家ですが、彼の作品や言葉は皮肉と機知に富み、彼自身のプロフィールも合わせて見るとなかなか面白いものです。いつか、王子とツバメを題材にして一作品ほど作ってみるのはどうかしら、といったところで、今回の雑記を終えたいと思います。今週中にでも、また作品アイデアのカテゴリに記事を追加するかと思います。

そんなわけで、TAKKからの雑記と宣伝でした。
それでは、また次回!

催眠暗示の技法に関して。

こんにちは、TAKKです。

■■■注意事項■■■
前回の最後にお知らせしていた通り、今回は催眠の技法をいくつかご紹介いたします。
どちらかというと『催眠作品を作ってみたいのだけれど、何をどうすればいいかよく分からない』という方に向けた内容になると思われますので、純粋に作品を楽しみたいという方は、いわゆるネタバレ的な要素を多分に含みますので(前回に引き続きで申し訳ございませんが)お読みにならないほうが良いだろうと思います。


まずはじめに……手法を3種類に分類してみたいと思います。これは、NLPのように(その有効性はどうであれ)手法を体系化しようという試みではありません。ただ、千差万別の催眠技法をご紹介するにあたり、『数字における素数のような何らかの構成単位を定めれば面白いかもしれない』という思いつきからのことです。ゆえに、この分類法は何らかの学術的な根拠に基づいたものというわけではありませんので、その点は、ご留意下さいませ。

さて……催眠状態への誘導や操作の手法は、その全てが下記の3種の要素のうちの何れかひとつ、もしくは複数を主として構成されているものだと言えます。

a.方向性
b.イメージ
c.パルス(アクセントと非アクセント)

以上の三つです。

――『方向性』とは。
前後左右、上下などへの移動を喚起するもののみならず、何かに意識を集中させるものや、思考を特定の向きに促すものもこの要素に含まれます。「落ちる」とか「浮き上がる」という直接的な方向性の表現から、カウントダウンなどの数唱技法による(数の減少or増加という)間接的な方向性の表現まで様々です。意識を集中させるもので有名なのは、渦巻きなどの、ヒプノディスクと呼ばれる類のものでしょう。また、導入においてエレベーターや電車などに乗っていることをイメージさせるのはよくある表現ですね。

――『イメージ』とは。
シュルツの自律訓練法などに代表されるもの。基本的に「○○をイメージしてみましょう」というものは、全てこの要素を含んでいると言えます。ただ、当然と言えば当然な話ですが、なるべく誰でも経験のある感覚や物をイメージするように促すのが好ましいでしょう。両手の温かさを喚起させるなら、あえて限定的な言い方で注意を引くというような意図がない限り、コーヒーカップを手にしたり太陽に手をかざしているといったような平易なイメージを喚起するようにし、温かさからリラックスへと繋げたい場合などは、夏場の蒸し暑さよりもお風呂や布団の中のイメージのほうが良いでしょう。当たり前じゃないかと思われるかも知れませんが、意外とこの『誰でも経験しているであろう』という点を突き詰めるのは難しいことなのです。例えば……睡眠や食事、排泄などは誰でも経験しているものと断定できますが、温かさから幸福感などを促したいときや、ボーっとした感覚を促したいときなどに「お酒に酔ったような」と言う場合、それが伝わるかどうかは確実ではありません。お酒に酔った経験のない場合もあれば、酔うということに肯定的なイメージを持っていない場合もあるからです。と言って、あまりに平易な表現を繰り返されると覚めてしまうという場合もあるようで……このあたりは、音声作品という形態ゆえの悩みとも言えますね。

――『パルス』とは。
これは物理学でいう矩形波のことではなく、音楽でいうところのパルスで、律動やリズムと言い換えても構いません。リズムではなくパルスとしたのは、この要素が『リズムを維持すること』のみならず、『意図的にリズムを崩すこと』を含むものだからです。括弧内で『アクセントと非アクセント』としているのはそのためです。先ほど『物理学でいうところの矩形波ではない』と言いましたが、オベパルスやヘミシンクなども催眠技法として考えるなら、この『パルス』に含まれるでしょう。指をパチンと鳴らしたり、口調を急に速めたりする手法も、これに含まれます。ヘミシンクはパルス(等間隔のリズム)、指を鳴らしたり口調を速めたりするのは、パルス(アクセントと非アクセント)ですね。ただ最初にも言ったように、速めたり大きな音を出したりするのに限定されるわけではなく、それまでの流れから外れた(外した)音を用いるもの全てを『パルス』に分類しています。例えば「ゆっくり深呼吸してみましょう」というような指示を口にする際に、この「ゆっくり」の部分をスローに読み上げるのはよくある技法だと思いますが、その場合は『スローペースな口調』がアクセント、『それまでと、それ以後の通常の口調』が非アクセントになり、パルスに分類されます。

最初に申し上げたように、これら3点は素数のようなもので、これひとつで構成される技法もあれば、複数で構成される技法もあります。例えば、催眠のステロタイプな形として漫画などによく登場する『ヒモ付きの五円玉』を分類するとすれば……まずは、揺れを注視するものであるためa.『方向性』の要素を含み、また、一定のパターンで動くのであればc.『パルス』の要素も含みます。さらに、五円玉を実際に用いるのではなくイメージさせるのであればb.『イメージ』の要素も含むでしょう。そのため、『ヒモ付き五円玉技法』はabc.全てに分類することができます。……しかし、要素が多いほど複雑化する傾向にありますので、五円玉技法は比較的に使い勝手がよくない部類のものと言えるでしょう。また、インチキなイメージが付きまとうため使い難いとお考えの方もいらっしゃるかもしれませんね。それは確かにその通りなのですが……五円玉でなくクリスタルのペンダントだとか時計の振り子といったように、揺れる小物を変えているだけで技法として同種のものを使用している作品は数多く存在します。それによって効果が変わるのかは定かではありませんが、たとえ同じ手法であっても、そうしたガジェットのチョイスが作品の個性を定めるのは確かなようです。ちなみに、エレベーターをイメージさせる導入法もよくあるもののひとつですが、これは『イメージ』と『方向性』の2点に該当しますので、ab.であると言えます。このように、気になった技法などがあればよく観察し、要素ごとに取り出して見てみると意外な発見があるかもしれませんね。

蛇足かも知れませんが、これら催眠技法のすべては『意識を正負、いずれかに偏らせること』を目的としていると言えます。“正”とは意識を一点に集中させること。“負”とは意識を均等に分散させることを指します。

分類に関しての説明は以上です。
最後に、こうして分類された技法を用いる際に使われるテクニックに関してです。つまり、言い回しや表現方法に関してですね。使いやすく有名なものとしては『許容的表現』などがありますが、そうした作品全体の方向性を決めるようなものではなく、今回は、より限定的なテクニックとして広く用いられているものの中から、『散在』と『前提』の2つをご紹介いたします。(ちなみに、この『散在』や『前提』という言葉は、わたしが勝手に作った先の分類とは違い、エリクソンに学んだ弟子の一人であるW.H.オハンロン氏とM.マーチン氏の書籍の翻訳からの引用でございます)

――『散在』とは。
ある指示を分散して言葉に紛れ込ませ、間接的に伝えるという手法。仕組みとしては、ある種のサブリミナルのような効果を狙ったものだと考えれば分かり易いと思います。文章にすると次のような形になります。

トランスに入るとはどのような感覚なのか、わたしにはよくわかりません。しかし、トランスに入るという言い方って、よく考えれば不思議なものですよね。催眠にかかるとは言いますが、トランスを感じることをトランスにかかるとは言いません。催眠に入るという言い方は、眠りはじめるというより、術者が催眠を開始するという意味のほうが大きく、催眠にかかるという意味には取り難いように思われます。語義的にも文法上も、トランスとは睡眠に近いものなのかもしれませんが、眠りに入るという言い方は、“すべからく眠る”というような誤用表現ほどではありませんが、個人的にはちょっとした違和感を覚えてしまいます。また、眠りに落ちるとは言いますが……トランスに落ちるという言い方は……うーん、わたしはこれも眠りに入るという言い方と同じく、なんだか可笑しく感じられますね。リラックスに入るというのも……うん、ちょっと可笑しい感じがします。そう考えていくと、トランスとは少し特別なものなのではないかと思えてくるのです。よく『トランスに入れば、すぐにトランスに入っていると分かる』などと言いますが、ひょっとするとそれはその通りで、それほどトランスというものは特別な感覚ということなのかも知れませんね――」

と、このような感じですね。音声作品の場合、これを普通のペースで話し続けるのがベターな形だと思いますが、太字にした部分を少し強めに読んだり、テンポをわずかにスローにしたりすることで意図的に目立たせるという場合もあります。というのは、実際の対面で行われる催眠においては、相手が『指示されること』に抵抗感をもっているかどうかを図ることができますので、指示されることを嫌っていない場合は、散在している言葉を目立たせることで、その発見がスムーズになるような方向に導くこともあるのです。この例文の場合は、黒字の部分から施術者の意図するところが分かるかと思われます。関連性はハッキリしませんが、精神分析の手法にも似たようなものがありますね。

――『前提』とは。
これにはいくつかのバリエーションが存在しますが、その中でも最も簡単なものは“選択の幻想”と呼ばれる手法でしょう。次のような言い回しをします。

「わたしは占い師のように何もかも見通せる力を持っているわけではありません。だから、あなたに何かを強制したりはしないんです。あなたにとってベストな方法やタイミングは、あなた自身が一番よく分かっていることなのだとわたしは思います。ですから……例えば、あなたは自分の意思で自由にトランスに入っていくのかもしれないし、わたしの声に従うことで入っていくのかもしれません。そのトランスはごくごく浅いものかも知れないし、中くらいのものか、あるいは、とても深いものなのかもしれませんね。仰向けに寝そべった状態で入っていくのか、横になった状態で入っていくのか、あるいは、リラックスした状態で入るのか、緊張した状態で入るのか、それはあなたが決めていいことなんです。今すぐにはトランスに入らないと決めたって構いません。本当にあなたの思うとおりに定めて構わないのです」

と、こんな感じです。
これは一見すると聞き手に選択権を与えているように見えます。いえ、実際にある部分では選択して下さいと言っているわけですが、ここで言っている全ての言葉は、すでに『トランスに入ること』を前提にした文言であることがお分かりになるかと思います。いつトランスに入るのか、どのくらい入るのかを決めていいですよと言うことで、『トランスに入らない』という選択を意図的に排除しているのですね。無論、この文言だけでトランスに誘導できるというものではありませんが、実際の催眠や、催眠音声などの多くは随所にこうした仕掛けを置くことによって誘導していくように作られています。


というわけで、TAKKの作品は、こうした手法を用いて作られておりますよというご紹介でした。
また、余談ではありますが、こうした誘導の手法を今よりも細かく分類することは、催眠音声の次の段階へと進むきっかけになるかもしれません。……と言いますのも、筋電図を用いた意識状態の観察(表情筋を指標としたもの)により、『どの誘導法で形成されるかによって変性意識の形(質)は違ったものになる』という可能性が示唆されているからです。『トランスというものは存在する(状態派)が、その形はひとつではない』という考え方ですね。こんな言葉はありませんが、催眠というものの捉え方として分類するなら“多義性状態派”といった感じでしょうか。『喜びや悲しみや怒りなどを示す言葉には様々なバリエーションがあるように、トランス状態と一口に言っても、本当はいろいろあるのかもね』ということ……つまり、今はまだそれを示す言葉がないため、十把一絡げに“トランス”や“催眠状態”などと呼んでいるだけで、あなたが経験したトランスは、別の誰かが経験したトランスとは形の異なるものなのかもしれないということなのです。思春期にクオリア関連で悩んだことのあるような方々(わたしもその一人ですが)であれば、興味深いものだと共感して頂けるのではないでしょうか。……もっと詳しく知りたいという方は、 CiNii Articlesなどの学術総合データベースにて“変性意識 筋電図”などのワードで本文検索をしてみて下さい。日本語で記述されているものも多いので、何となく眺めるだけでも楽しめるのではないかと思います。

さて……しかしながらこうして書き記してみると、この『トランスの形は複数存在する』という考え方は、何とも不思議な感じが致します。もしかすると、将来、催眠状態やトランスの存在がより明確に証明され、人の示す反応にも何らかの法則性が見出せるようになったとすると、その頃の催眠音声作品のラベルには『どのタイプのトランスをもたらすものなのか』が一目で分かる“トランスの成分表”のようなものが表記されているかもしれませんね。巻きタバコのように、自分の好みにトランスをブレンドできるようになったり……ああ、そんな確かなものにいつの日かなればいいなと思う、今日この頃でございます。

さて、長くなりましたので、今回はこのへんで。
それでは、また次回!

現代催眠について。

TAKKです。
今回の雑記は、催眠の技法についての考察です。
手法や定義に関することですので、純粋に催眠音声を楽しみたいユーザーの方は、今回は、お読みにならないほうが良いと思います。

さて……皆さんは『現代催眠』という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
米国臨床催眠学会(ASCH American Society of Clinical Hypnosis)の創始者であるミルトン・エリクソンの手法を用いた催眠に対して、多くの場合、この言葉が用いられます。エリクソン催眠は様々な点においてエリクソン以前の催眠とは異なるので、区別するためにこう呼ぶのです。
エリクソン派の主張に反論する方々(わたしも一部においてはそうですが)にとって、この『現代催眠』という言い方はあまり好ましいものではないようです。何故なら『現代催眠』という言い方は、自動的に、エリクソン以前の催眠を古い催眠だとか、『古典催眠』としてしまうことになるからです。ちょうど『旧約聖書と新約聖書』という呼び方や区別の仕方へのユダヤ教徒側の憤りに近いものがあるというわけですね。そうした小さな反論はあるものの……この雑記内では便宜上、エリクソン催眠を現代催眠、それ以前のものを古典催眠と呼称することにします。その点、何卒ご容赦下さいませ。

それでは……まずはじめに、エリクソン氏に関する基本的なことから。
第一に、エリクソン本人が自らの手法についてを語ったり、記したりすることを嫌っていた節があるためか、彼一人の手によって書かれた出版本は一冊も無いということを理解しておかなければいけません。(共著という形で書かれたものや、論文などは存在します。また、これはエリクソンが患っていた身体障害もひとつの要因になってはいるのだろうと思います)――エリクソン本人による記述は非常に珍しく、わざわざ“付録”と銘打っているものもあるほどです。この点は、エリクソンや現在催眠を理解するのに重要な観点のひとつです。言うなれば、仏陀や、聖書の中の神の言葉と同じで、愛弟子などが「彼はこんな風な考えらしいよ」と伝えているというのが実情です。ただし、共著でないものでも『本人が書いたわけではないが、本人が目を通したうえで太鼓判を押した』という本や、エリクソン本人のカウンセリングを記録したCD(テープ)などは存在します。何れにせよ、一人を挟んで伝言ゲームをしている状態で声が届くようなものであり、どうしてもエリクソン個人の本意が読み解き難いものであるのは確かなのです。
そもそものところ……エリクソン本人は、自身の催眠手法を体系化していなかったように思います。それは自転車の乗り方や楽器の弾き方のようなもので、本人にとっては『出来て当たり前』のことであるため、『何をどうすればそうなるのか』を言葉で説明することは難しかったのでしょう。また、あとでお話しますが、現代催眠の定義からしても、『手法を伝える』ということは難解だったのだと思います。実際、オハンロン氏のワークショップ(実際に体験できる講座のようなもの)の記録をまとめた『ミルトン・エリクソンの催眠療法入門―解決志向アプローチ』という一冊の中で、あまりにも皆から催眠手法についてを問われるのでエリクソンは少しうんざりして「だってそうなるでしょ?」と応じていたという話や、トランス状態の定義を問いかけられた際には『体験してみれば自ずと分かることだよ』という趣旨の答えを返していたという記述があります。これは、個人的には日本の職人のようなもので、「教えてくれ? ばっきゃろ、見て盗みやがれってんだ」的なものだったのかしらと想像したりもしますが、とにかく、エリクソンはある種の天才タイプであったため、現在残っている現代催眠の手法の多くは、そのエリクソンから直接指導を受けたという愛弟子たちによるものであると理解してよいと思います。
さて、そのような現代催眠ですが……何が従来の催眠と違うのでしょうか?
最も大きな違いは、催眠というものに対するスタンスにあります。古典催眠が基本的には『人によってかかり易さがあり、絶対にかからない人というのも存在して、それはもうどうしようもないんです』というものであるのに対して、現代催眠は『かからない人は存在しない。悪いクライアントというものはなく、ただ施術者の良し悪しが存在するだけ』という考えを基本に置いています。この『誰でもかかるもの』という主張の根拠は様々ですが、ひとつには、トランス状態とは万人にとって身近なものであるからというものがあります。退屈な授業や睡眠に入るとき、朝のまどろみ、好きな音楽を聴いているとき、あるいは自転車に乗っているときやジョギングしている際に感じる白昼夢的な時間感覚の歪み(ふと気が付くと目的地近くまで来ていたが、道中の記憶はあやふやというようなもの)など、トランスに似た感覚は誰でも経験したことがあるでしょう。これを例にして、『トランスに似た感覚は誰でも経験したことがある、ゆえに、それを喚起するように誘導すれば誰でもトランスを感じることはできる』ということなのだそうです。ただし気をつけなければいけないのは、エリクソン派は『現代催眠であれば、誰でも催眠(トランス)にかけることができる』と言っているだけで、『催眠は誰にでもかけられるものである』と言っているわけではないという点です。そして、『喚起するように誘導すれば~』という点において、次にあげるような現代催眠の形態が必要になるのです。
現代催眠の特徴として有名なのが、許容的表現(~できます。~できるでしょう。~かもしれません。などの言い回し)でしょう。ですが、これはどちらかというと催眠そのものの手法に近く、現代催眠の主とするところではないように思います。現代催眠の大きな特徴とするのであれば、『観察』と『利用アプローチ』という2点のほうがより重要であると言えるでしょう。
『観察』というのはそのままの意味ですが、最も重要な点であると言えます。エリクソンは特に『観察』というものを重要視していたのだそうで、これを端的に説明するものとして、エリクソンに直接学んだ一人であるユング派の分析家・アーネスト・ロッシーとの話があげられます。エリクソンが被験者に催眠をかける場面に立ち会っていたロッシーが、ふと天井に目をやり、『彼はどのようにそれを行っているのだろうか』と催眠理論に関していろいろと考察していたところ、エリクソンに肘でつつかれ、次のようなことを言われたそうです。

「天井に患者はいませんよ。ロッシー博士、彼女(被験者)の顔を見なさい」

さて……このことからも分かるように、エリクソンは、理論というものにあまりこだわっていないか、それよりも臨床における実際的なことを重視しているように見受けられます。それは『利用アプローチ』という手法に通じるものでもあるでしょう。
利用アプローチとは、簡単に言えば『患者の示した反応は何でも利用する』という考え方です。有名なところではエリクソンを紹介する際によく引用される『椅子に座りたがらない患者』への対処などがあげられますが、それ以外ではオハンロンの『クスクス技法』などが良い例だと思われます。クスクス技法とは、学校恐怖症を患っている10歳の少年に対してオハンロンが数唱技法(音声作品では一般的なカウントダウンなどのこと)による催眠を施そうとしたところ、少年が(緊張からか、意識し過ぎたせいか)クスクスと笑いだしてしまったことから生み出されたものです。従来の催眠であれば、なるべく笑わないようにそれとなく促す場面なのでしょうが、オハンロンは逆に“笑い”を利用することにし、「18、笑っているのはトランスに入る一番いい方法かもしれません……17……と言うのも、大人は催眠というものを堅苦しく考えすぎる傾向にあってね?」などと続けます。つまり、笑いを拒絶せずに導入に取り込んで“利用”したのです。そうすると、カウントが5になったところで笑いがおさまり、少年は静かにトランスへと入っていったのだそうです。驚くべきはその後のことで、治療を終えた少年のトランスを解くために1~20へカウントしていくと、数字が5になったところで少年は再び笑いはじめ、その笑いは20になるまで続いたと言うのです。……さて、この話は本当だと思いますか? 中には『そんなのありえない』と思った方もいるでしょう。しかし、真相はどうであれ……オハンロンはこの記録を紹介した後に、次のような趣旨のことを述べており、それが現代催眠において最も重要なものであるとわたしは思います。

「この技法は『クスクス技法』と言います。しかし、これは私の技法ではありません。他の人の技法でもありません。これは少年の技法、彼だけの技法なのです」

――これは現代催眠の定義、現代催眠がなぜ『誰でも催眠(トランス)にかかることができる』と主張するのか、そして、どうしてエリクソンが手法を問いかけられるたびに面白くなさそうな顔をしたのかが良く分かる一文だと思います。現代催眠とは、観察によって得たすべてを利用し、個々にチューニングすることにより、被暗示性など関係なく催眠(トランス)に誘導するというものなのです。

さて、察しの良い方などはすでに不思議に感じていらっしゃるかもしれませんが……ここまで書くと、ふと、ひとつの疑問が思い浮かびます。それは『現代催眠を用いた音声作品は創作可能なのか』という疑問です。この雑記を書くきっかけでもあるのですが、何度か「あなたの作品は現代催眠なのですか?」と聞かれる機会がありました。ですので、この場をお借りしてお答えさせて頂きたいと思います。
TAKKの催眠作品は厳密に言えば現代催眠ではありません……というよりも、個人的な見解では、『現代催眠による音声作品』という言葉からしてすでに矛盾を孕んでいるように思われます。何故なら現代催眠とは、前述の通り、意識的なものであれ、無意識的なものであれ、『クライアントからのレスポンス』を必須とするものだからです。その作品を聞く人物が過去にトランス経験があるのか否か、または(過去の経験を喚起するために必要な)年齢の情報はおろか、場合によっては性別さえ限定できない上に、その視聴中の反応を観察することも適わず、当然『利用アプローチ』など取りようもないというのであれば、どれほど許容語を含んでみたところで、それは『許容的アプローチによる催眠』か、『現代催眠“風”催眠』でしかありません。当然、エリクソンの系譜という意味での現代催眠ではないのです。……語弊がないように付け加えると、「現代催眠“風”催眠だから効果はない」ということではありません。これは定義の問題というだけのことで、製作中のものも含めたTAKK作品もまた『現代催眠“風”催眠』だと言えます。この点は、先にあげた『許容語や許容的表現』や『分割と前提』などの催眠の手法の紹介にからめて、また別記してみたいと思います。


長くなりましたので、今回はこのへんで。
それでは、また次回!
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